自動車系のSIer(システムの受託開発をする会社)で中間管理職をしています。開発の請負と準委任が中心で、客先の製品開発に入って仕事をする部門です。
小さい会議室の時計が、四時を少し回っていた。異動を伝える三十分の面談で、本人はまだ来ていない。いつも帰る時刻までは、一時間ある。その時間に合わせて、この部屋を取っていた。
机の上には紙が一枚、裏返して置いてある。新しい案件の仕事を、箇条書きで六行にしただけのものだ。中身は薄い。だから腹をくくる話を先にして、紙はそのあとで見せる。分からないまま持ち帰らせるより、その方がいい。そう決めていた。それと、前の日に電話で聞いたばかりの話が、頭の中に一つ。
「仕事が残っていても、帰ってしまう日があります」
この話を、本人にこの場で言うのか。言うなら、何と言って切り出すのか。まだ決めていなかった。
目次
第1部 場面 — 異動を伝える三十分
1. 登場人物は三人だけ
2. 前の日に、電話で聞いた話
3. 聞いた話を、本人にぶつけた
4. 中身を聞かれて、私は紙を見た
第2部 考察 — なぜ「腹をくくれ」と言ったのか
5. ここで、別の伝え方もできた
6. 同じ言葉が、向こうでは何に聞こえたか
7. なぜ管理職は、先に安心させたがるのか
8. ただし、不安をそのまま渡せばよいわけでもない
9. 私が信じていた前提
第3部 打ち手 — 次に同じ場面が来たら
10. 私が決めたのは、三つだけ
11. その後
12. おわりに
第1部 場面 — 異動を伝える三十分
登場人物は三人だけ
- 私(部門のマネージャー。複数の案件をまたいで人を動かす立場)。守りたいもの=本人が、不安なままこの部屋を出ないこと
- 本人(客先の案件で数年働いてきたエンジニア。今回、別の案件へ移る)。守りたいもの=翌日の体力。出社すると次の日に響く距離に住んでいる
- 前の案件のリーダー(本人の日々を一番近くで見てきた人。私に懸念を伝えた側)。守りたいもの=残った仕事を抱えるチームの納期
受け入れ先の案件は、担当(私の同僚)が客先と中身を詰めている最中だった。異動は部門の側で決めたもので、私もその一人だ。本人に断る余地はなく、面談は通知に近い。
移る先も、客先の開発に入る案件だ。何が起きたかを先に書く。
1. 本人を別の案件へ移すことが決まった。開始時期は月内に決まる予定。中身は受け入れ側の担当が客先と詰めている途中
2. 伝える前日、前の案件のリーダーから「仕事が残っていても帰る日がある」「技術のほうも、どうか」と聞いた
3. 面談で私はそれを本人にぶつけ、本人は理由を答えた。私は「安心している」と言い、本人は「合っているかもしれないし、間違っているかもしれない」と答えた
その「安心している」をなぜ先に言ってしまったのか、なぜ間違いだったのかを、順に書く。
前の日に、電話で聞いた話
前の日の夕方、フロアの端で、私は立ったまま前の案件のリーダーに電話をかけていた。異動の段取りを伝えるためだ。
段取りの話は二分で終わり、リーダーの声が少し低くなった。
「一つだけ、いいですか」
「どうぞ」
「仕事が残っていても、帰ってしまう日があります。これはやらないといけないよね、と話した日でも、です。それと、技術の伸びのほうも、正直どうなのかなと」
返事に間が空いた。私の知る本人は、頼んだことは戻ってくるし、報告も遅れない。リーダーが言っているのは、私の知らない本人だった。
誰から聞いたかは本人に言わないと決めて、電話を切った。明日、この話を持ったまま異動を伝える。
聞いた話を、本人にぶつけた
翌日の四時過ぎ。小さい会議室に、私と本人の二人。異動を伝える三十分だった。
人づての話を本人に言うかどうかで、前の晩から迷っていた。言わずに異動させれば、本人は同じことを新しい案件でも言われる。理由があるなら、先に本人の口から聞いておきたい。本人が来る前に、言うと決めた。「どうこうする話ではない」と最初に断ってから聞く。
「これは完全にオフレコで、どうこうという話ではないんだけど」と私は切り出した。「やらないといけないことがあっても、帰ってしまう日がある、というのをちらっと聞いていて。その辺はどうなんですか」
本人は少し笑った。
「帰るときは、まあ、帰りますけど」
否定はしなかった。それが答えだと私は受け取って、次を聞いた。
「技術の習得のほうは、どう」
「その辺は、あんまり意識したことがないですね」
技術のほうも、本人は否定しなかった。私は、用意していた言葉を出した。今度の案件では、技術を身につけないとついていけない場面が出てくる。そこだけは頑張ってほしいと伝えた。それから、本人のためにいちばん言っておきたかったことを言った。入ってから無理をして折れるのが、本人には一番よくない。
「一番つらいのは、入ってから『思っていたよりきついので、やめます』と言われることで。本当に無理なときは無理でいい。でも『頑張れないので』という話なら、最初からやめたほうがいい」
本人はそれには答えず、帰る理由のほうを言った。
「帰るのには、理由があって。出社すると、次の日にかなり響きます」
「遠いから、ということだよね」
「ですね」
家でできる分を家でやるのはありだ、と私は言った。やるべきことはやる。それさえ守れるなら、働き方は柔軟に考える。前の案件では注意されていたので、今度は「やっています」と見せてほしい、とも言った。
本人は頷いた。浅い頷きか深い頷きか、私には分からなかった。
中身を聞かれて、私は紙を見た
同じ会議室。時計は四時半に近づいていて、机の上の紙は、まだ裏返したままだった。
理由は分かった。距離の話なら手の打ちようがあり、本人に渡せる言葉が一つ増えた。残るのは新しい案件の中身と、本人の覚悟だ。どちらを先にするか一瞬考えて、予定どおり覚悟を先にするつもりだった。
先に口を開いたのは本人だった。
「まだ、どんな仕事をするのかイメージが湧いていなくて」
「ごめん、正直、僕もそんなにつかめていなくて」
言ってから、紙を表に返した。六行を、上から読んだ。部品の企画から設計、実装、試験まで。ハードの試験は別の部署の担当だが、そちらに余力がなく、本人のチームでやるかもしれない。検証に使うモデルも作る。動き方は、かなり柔軟に変える必要がある。
読み上げながら、これは説明ではないと分かっていた。ありそうなことの一覧で、本人が何をするかは書いていない。
「細かいところは、受け入れ側の担当が客先と詰めている。いつからかも、別に連絡する。まずは、いまの案件から抜けて、向こうのチームに入る形になる」
本人は紙を見ていた。この穴を、そのまま持ち帰らせたくない。何かで埋めたくなって、今日いちばん言わなくていいことを言った。
「聞いていた話と、こうして話してみた感じが、少し違う気がして。正直、安心している部分もあります」
本人は紙から目を上げて、少し首を傾げた。
「どうなんですかね。合っているかもしれないですし、間違っているかもしれないです」
私はそれを謙遜として聞いた。腹はくくってもらう必要がある、と続けた。サポートするメンバーは揃っている。相談しても、無視されることはない。
「はい、分かりました」
納得したのか、話を終わらせたかっただけか、区別がつかなかった。紙は、私の手元に戻す。渡すほどの中身ではない。本人が帰る時刻には、まだ少しあった。
第2部 考察 — なぜ「腹をくくれ」と言ったのか
ここで、別の伝え方もできた
「今日は、移ることだけ伝える。中身は担当が客先と詰めていて、月内に説明の場を作る。腹をくくるかどうかは、それを聞いてから決めてくれていい」。あの日、私にはこの伝え方もあった。異動は決まっていて、この日に覚悟まで求める必要はなかった。
あなたなら、中身を三行で説明できない日に、「腹をくくれ」と言うだろうか。
言った理由は、はっきりしている。分からないことだらけの話を、そのまま渡したくなかった。覚悟という持ち帰れるものを一つ渡せば、本人は不安を持ち帰らずに済む。そう思っていた。
同じ言葉が、向こうでは何に聞こえたか
私から見れば、「一つの機会だと思って」も「腹をくくってほしい」も、応援の言葉だ。悪意の入る隙間はない。
本人の側に並べ直すと、順番が違う。前の案件では注意されていた、と言われた。仕事の中身は上司も分かっていない、と言われた。そのうえで、覚悟しろ、と言われた。見えていないものに覚悟はできない。あれは謙遜ではなく、正直な答えだった。
ここに名前を付けるなら、先払いの安心だ。私が渡したかったのは、事実ではなく、大丈夫だという気持ちだった。その材料は二つしかなかった。話してみた感じと、本人の相槌。どちらも事実ではない。本人は、根拠のない安心を受け取らなかった。
なぜ管理職は、先に安心させたがるのか
異動は、たいてい本人のいないところで決まる。中身は受け入れ先が客先と詰めている最中で、開始日は月内としか言えない。伝える側の手元にあるのは「決まったこと」と「分からないこと」の二つだけだ。
これをそのまま渡すと、不安を渡すことになる。伝える側は、不安の代わりに覚悟を渡したくなる。私はそうした。「腹をくくれ」は、分からないことを言い換えた言葉だ。
もう一つ、伝える側の甘さがある。決まったことと分からないことを、そのまま渡すのが伝える側の仕事だ。それは冷たい渡し方に見える。冷たい渡し方を本人にしたくなくて、私は気持ちを足した。足した分だけ、事実が薄まった。
ただし、不安をそのまま渡せばよいわけでもない
分からないことを全部並べて渡すと、本人は「まだ決まっていない話」と受け取り、準備を始めない。入ってから困るのは同じだ。
だから分けて渡す。決まったこと。分かっていないこと。今日、本人に決めてほしいこと。三つに分ければ「腹をくくれ」は要らなくなる。三つ目が「今日は決めなくていい」なら、なおさらだ。
私が信じていた前提
私の落ち度は、人づての話を本人に言ったことではない。言ってよかった。聞き方は別で、それは打ち手に書く。
落ち度は、その前にあった。私は「覚悟と安心を先に渡しておけば、本人が不安を持ち帰るのを避けられて、本人が前を向いて入れる」と信じていた。帰る一時間前に部屋を取ったのも、紙を裏返して置いたのも、その前提の上にある。
その前提は、本人の一言で崩れた。本人は、見えていないものには腹をくくれないと、正直に言っただけだ。気づく機会は二回あった。「イメージが湧いていない」と本人が言ったときと、「僕もつかめていない」と自分が言ったときだ。どちらでも、私は先に進んだ。
第3部 打ち手 — 次に同じ場面が来たら
私が決めたのは、三つだけ
1. 中身を三行で説明できない仕事について、その日に「腹をくくれ」と言わない。
決まったこと/分かっていないこと/今日決めてほしいこと、の三つに分けて渡す。
・効く条件:開始まで週の単位で時間があり、説明の場を日付で約束できるとき。
・効かない条件:開始が数日後で、説明を待てないとき(「分からないまま入る」と言い切り、最初の一週間の相談相手を名指しで決める)。
2. 人づての懸念は、「どうなんですか」と聞かずに、行動の事実を聞く。
「出社の日は何時に出て、残った分はどうしている」。答えは行動で返る。
・効く条件:懸念が早退や遅れのような、行動の話であるとき。
・効かない条件:懸念が「技術がどうか」のような評価の話であるとき(本人に聞いても分からない。成果物を見るか、一緒に作った人に聞く)。
3. 「安心している」を、根拠が話した感じしかないうちは口にしない。
言うなら、何を見て安心したのかを添える。添えられなければ、自分の中に置いておく。
・効く条件:本人が自分の評価を気にしている面談のとき。
・効かない条件:本人がもう決めていて、背中を押すだけの場のとき(このときは根拠より言い切りが要る)。
やらなければ、本人は「間違っているかもしれない」を二度は言ってくれない。次からは「はい」だけになる。
その後
開始日は面談の時点では決まっておらず、月内に決まると言って別れた。案件の資料は、その日にはまだ無かった。本人が新しい案件でどう動いたかは、書いている時点では分からない。
おわりに
異動を伝える面談に見えて、実際は、私が本人を安心させたがる面談だった。事実の代わりに安心を先払いしたのは私で、それを受け取らなかったのは本人だ。
あの日の紙は、いまも机の引き出しにある。六行の箇条書きで、本人が何をするかは、どこにも書いていない。誰かに「腹をくくれ」と言いたくなるとき、たいてい手元には、そういう紙しかない。
次からやることは一つだ。「腹をくくってほしい」と言う前に、その仕事の中身を三行で書いてみる。 書けなければ、その日は「決まったこと」と「分からないこと」だけを渡して、覚悟を求めるのは、次に会う日まで待つ。冷たく見えても、その方が本人のためになる。同じ立場なら、試してみてほしい。
このシリーズでは、中間管理職として実際にやってしまった判断を、そのときどう間違えたかまで含めて書いています。同じ立場で似た場面に出くわす方に届けば幸いです。
※ 実際の業務経験をもとに書いていますが、当事者が特定されないよう内容を変更し、脚色しています。